曾祖父の湖﨑武吉(1868~1952)が成井会講習所(東京慈恵大学 前身)で勉学後、東京井上眼科病院に勤務し、明治27年に高松市築地町に医院を開設。昭和20年戦災にて焼失、後継者もなく廃業。
祖父 湖﨑清一が、府立大阪医科大学(大阪大学 前身)眼科学講師として勤務しながら、昭和2年(1927年)に大阪市南区鰻谷仲之町にて夜間開業した。
昭和7年に大阪高等医学専門学校 眼科学教授(大阪医科大学 前身)に就任し、大阪帝国大学講師(大阪大学 前身)と兼務していたが、昭和10年に医院を新築の上、大学を退職し終日開業した。初代の湖崎眼科医院は入院施設を完備していた。
その後、昭和20年の戦災で焼失した。
(鰻谷 旧湖崎眼科医院)
大阪空襲で医院が焼失後、不幸にして戦死された清一の後輩、根本医師の開業先であった阿倍野区阿倍野筋2丁目の旧根本眼科に移転開業した。
(当時の眼鏡処方箋 井上新先生より提供)
昭和43年 清一の長男 弘が大阪厚生年金病院(現 JCHO大阪病院)眼科長を辞した後、阿倍野区阪南町1丁目の現在の場所に新築移転し、湖崎眼科病院として、院長 清一、副院長 弘、また、三男 敦が事務長として、共に診療を開始する。
(旧本院 松虫筋拡張工事後)
入院での全身麻酔による斜視手術を開始。斜視手術は、清一の次男、克が執刀し、土曜日に施行していた。
医療法人湖崎会と改組する。
外来患者を予約制としたが受診患者が多く、予約が取れない状況となり、健康保険適応を返上し、自費診療のみに変更した。それに伴い、窓口にコンピューターを設置し、経理、予約を管理した。
ソニーβマックスを応用した顕微鏡手術用ビデオシステムを開発し、導入。
(ビデオシステムを導入した当時の手術光景)
清一死去により弘が院長に就任。
当時、まだ、米国でしかされていなかった超音波白内障手術をいち早く導入。
有床診療所と改組する。
院長 弘が死去のため、克が法人の理事長と院長を兼任し、克の長男 淳が関西医科大学眼科学講師を退職し、副院長(本院院長)として就任
克が法人の院長を辞し、淳が院長に就任
弘の長男 亮が、日生病院眼科 副部長を退職し、法人 副院長(分院長)として就任。それにともない、克が分院長を辞す。
克が理事長を退任し、淳が、法人の理事長、院長を兼任。
25ゲージによる硝子体手術システムを導入し、日帰り硝子体手術を開始する。
本院を建て替えるため、昭和町、文の里商店街内の仮診療所へ移転
前田直之が大阪大学医学部眼科学教室 寄附講座教授を退職し、法人の副院長(分院副院長)として就任 (大阪大学眼科学教室特任教授と兼任)
旧本院跡に無床診療所の新病院へ移転開業し、白衣をやめて、ユニフォームを一新
(現在の本院)
日帰り全身麻酔による小児斜視手術を導入
低濃度笑気麻酔を導入
大阪ターミナルビル(アクティ大阪)開設するにあたり、17階総合クリニック内に分院(アクティ大阪分院)を開設、本院で勤務していた稲葉昌丸医師が分院長に赴任。
(アクティ大阪の写真)
清一の次男 克が大阪市立小児保健センター(大阪市総合医療センター 前身)所長を退職し、分院長に就任。
(アクティ大阪開院直前の分院入り口、弘と克の写真)
稲葉昌丸医師が退職し、大阪市北区梅田2丁目に稲葉眼科を開設し、隣接地にコンタクトレンズを扱う有限会社湖崎オプティカルを設立し、敦が社長となる。
稲葉眼科と湖崎オプティカルが駅前第一ビル内に移転
弘の長男、亮が、分院長(法人の副院長)に就任
アクティ大阪が、大阪ステーションシティサウスゲートビルとしてリフォームされたのを機会に「湖崎眼科梅田分院」と改名
前田直之が、分院副院長として就任